「狩野永琳展」臨時休館特別公開 ⑥ 岩国とのご縁

そもそも大阪の絵師・狩野永琳が岩国で親しまれたのは、なぜ?
実はこのことは、よくわからない・・というのが正直な話です。それは当時直接かかわりを持った人たちが、すでにいないことにあります。ただ、永琳の残した絵を見ることで少しずつですが、岩国との交流が深かったことがみえてきました。
今回は、そのお話です。

まずは、この壺に描かれている「栗」の絵は、狩野永琳が描いたものです。

この壺は、岩国藩の御用窯・多田焼で、初代田村雲渓の作品です。

永琳絵付けの多田焼

岩国の多田焼を復興させるために開窯した初代田村雲渓(1934~1985)は、地元多田に生まれました。岩国の歴史と文化をこよなく愛していましたので、江戸時代に造られていた多田焼の復興を願い、古文書にある多田焼の資料を基に釉薬の調合などを学び、自ら多田に開窯しました。残念にも道半ばで病に倒れましたが、その意思は見事に長男の2代目雲渓に継承されました。初代が陶芸の個展活動をする中で、狩野永琳に絵付けをしてもらう機会がありました。2人の出会いのきっかけははっきりしませんが、もしかしたらライオンズクラブにあったかもしれないようです。
前回の色紙絵のお話でもお伝えしましたが、永琳は大作ばかりでなく、色紙絵も得意としましたので、素焼きした陶器に絵を描くことも苦にならなかった、というよりも楽しんで描いたように思います。ここにあげました2つの壺と皿をご覧ください。
栗の絵の壺、そして龍の絵の皿。どちらものびのびとした筆の動きを見せています。
2代目雲渓は語ります。「下関での個展に出した永琳先生の絵付けの器は評判が良く、完売したのを覚えています」、また「初代は永琳先生にずいぶん助けられたのです」と懐かしそうに眼を細めておられました。

永琳絵付け「龍」の皿・多田焼

「龍」

この龍の絵皿とお軸は、和木町のM氏所蔵の作品ですが、「初代雲渓の展示会のお世話をしたときにお礼として貰ったもので、我が家の家宝です」と言われています。永琳先生お得意の龍が、お皿いっぱいに描かれて、いいお顔です。

また、当時の岩国青年会議所には、永琳の絵を好む人たちが集まり「永琳会」という会を作っていたそうです。永琳の絵を楽しみ、その人柄に惹かれたのでしょうか、交流を深くしていたと聞きました。今回の展示に際してT氏が所蔵する色紙絵を、ご家族にお借りしました。T氏は既に亡き人ですが、永琳会の事務局をしておられたようです。絵画を楽しむグループを運営し、岩国の実業家たちが芸術的交流の場を作っていたことを知りました。明治の実業家たちがそうであったように、日本の政治・経済を引っ張っていった人たちは、文化・芸術に対しても大きな貢献をしてその名を残しています。日本にある美術館にはその名の残る実業家の名前が沢山あります。ここ岩国にもそんな人たちがいたのかと、改めて誇らしく思っているところです。

永琳の色紙絵「山水画」「石を叩くと羊になる」

永琳は、岩国に来ると美川にある雲渓窯(多田から美川に移転)に泊まり、絵付けをしていたそうです。今もその部屋が残っていますが、気さくで、話好きの永琳と初代雲渓は、夜が更けるのも忘れて話に花を咲かせていたのでしょう、目に見えるようです。
人と人とのつながりが、芸術作品を生みだしていく、そして、見る人を楽しませ、喜ばせていたという。今も美川の雲渓窯はそんな空気の漂う場所です。

そして、今回の永琳の展示を岩国で行うことになったきっかけは、2018年7月から9月までの「岩国藩の御用窯~多田焼~」の展示をしていた時、栗の絵が描かれた多田焼の壺を展示しました。そのことを五橋文庫のブログにあげて、多田焼には珍しい絵付けの壺の存在をご紹介をしました。その内容に気が付かれた永琳の娘様たちが、五橋文庫を訪ねて来られました。岩国には父永琳にご縁のある方がいたこと、そして、2代雲渓との再会がきっかけとなり、長年願っていた父永琳の遺作展を岩国で行うこととなったのです。

この春からの新型コロナウイルスの拡散の影響をうけて、会期中に休館せざるを得なくなるなど、大変な状況になっておりますが、当初の会期を2か月延長してこのまま8月25日まで展示することに致しました。緊急事態は解除されましたがまだまだ油断はできません。しかし、まずは地元の方から、昭和の絵師の描き残した絵をご覧いただき、当時の初代雲渓の多田焼や「永琳会」のお話が出来たらと思います。

5月25日から、開館する予定です。マスクをしての来館をお待ちしております。

 

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