岩国にもあった「磁器の歴史」
日本の磁器は17世紀初め、有田の泉山の発見に始まりました。豊臣秀吉の文禄・慶長の役のときに、肥前の領主・鍋島直茂が連れて帰った李参平が磁器の粘土の原料になる陶石、カオリンの岩盤を発見したのです。当時の朝鮮では李朝白磁という白一色のやきものを造っており、その朝鮮の陶工の指導で白磁の器つくりを学びました。四季のある自然豊かな日本では中国の絵付けに影響を受けていましたので、白い器に青呉須の染付はもちろん、赤絵の技術を高めていきました。鍋島藩の赤絵を今泉今右衛門が担い、柿右衛門の鮮やかな赤絵も生まれていきました。
初期柿右衛門色絵徳利
実は、岩国の池が迫にも磁器を焼く窯、皿山焼がありました。岩国藩の御用窯・多田焼の窯に不具合が生じた時、皿山焼の窯を使っていることが記録に残っています。この皿山焼が、岩国の磁器の始まりです。この窯は、藩主やその家族が日常生活に使用する器を作るために藩が造った窯であり、岩井屋徳左衛門と吉田屋次郎右衛門が許可を得て器を造っていました。川西と御庄に出土する粘土が無くなったことから、皿山焼は廃止せざるを得なくなったようです。
江戸時代末期の1867年に岩国の川西に錦屏山焼が開窯され、磁器を造っていました。京都から招いた職人が造った5客の盃には「岩國松坪製」と書かれています。この錦屏山焼も岩国では多く売れなかったため長くは続かなかったようです。(参考資料「岩国の焼物」岩国徴古館発行)
錦屛山焼盃
今回の展示は、日本の磁器のやきものに関しての流れを展示しています。