錦帯橋は今も昔も・・
1800年初めに岩国藩志の和田石英が描いた「錦帯橋図」です。萩の毛利家からも認められた雲谷派の絵師でした。
黄檗山萬福寺第29世住持璞巌衍曜(はくがんえんよう)が1812年(文化9年)の夏に賛を書いています。このころの岩国は、十代藩主経礼(つねひろ)が治めており、岩国藩の御用窯も新しく作り変えられ、ロクロを使って献上品の「多田焼」を造っていました。
「 山頂華簪鮮 山腰錦帯懸 怪見羽衣女 払石下春川 」
山頂の花かんざしはあざやかに、山腰には錦の帯がかかり、
はごろもの女だろうか、石をはらって春の川をくだるのは
この詩には錦川にかかる錦帯橋と、その背景にある山々の美しさが詠まれており、石英の描いた錦帯橋そのままが謳われているようです。 館長