「酒器Ⅲ」は李朝堅手徳利・三島手・粉引から
台風14号の通り過ぎた週末の岩国錦帯橋は、吹く風が秋の気配をつげているようです。
李朝の粉引・三島手・堅手盃・・
8月27日に始まった「酒器Ⅲ」、秋にピッタリの酒器が並びます。
写真のお軸は、岩国の範士、雲谷派の絵師でもある和田石英の「錦帯橋図」です。当時の様子が良く描かれているこの絵は、酒井酒造㈱の「五橋」の酒ラベルになっていることでよく知られています。
その「錦帯橋図」の前に並ぶ、李朝の堅手徳利と盃は李朝白磁作家の崔在晧(チェ・ジェホ)も目をとめて作陶の参考にしたという酒器です。
李朝堅手徳利・盃
この徳利自身が、少し酔いを感じているような姿をみせて、なんとも素朴です。
その前にある李朝三島手皿は、時代を感じさせる色合いに、三島模様の美しさが凛として好ましく思えます。
李朝三島手皿
前回ご紹介した宝城粉引皿と共に、いかにも李朝を楽しめるもの、後ろに並ぶ盃と良く似合います。
李朝宝城粉引皿
使い込んだ井戸盃は、見込みに少し割れがありますが、使うには問題のないものでした。燗酒によさそうです。
李朝井戸盃
李朝初期には、高麗由来のやきものが沢山つくられていたと言いますが、九州の唐津焼、高取焼、上野焼、そして山口の萩焼を生みだしていくのです。
縄文・弥生の時代の古墳から出土するものをみると、日本海を挟んで朝鮮半島と山陰に暮す人たちの交流が始まっていたようです。人が交わればおのずと文化の交流を生みます。
特に唐津焼は文禄・慶長の役以前にその始まりがあったことが分かっています。唐津は対外交易の拠点でもあったため、室町時代末期から桃山時代にかけて岸岳城を居城とした波多三河守親の庇護の下、朝鮮から自ら渡ってきた陶工が生活雑器を中心に焼いていたことが唐津焼の始まりと言われています。そして、後に文禄・慶長の役で鍋島が連れ帰った陶工により盛んにつくられていったのです。
次は、唐津のご案内を準備いたしますので、お楽しみに