錦帯橋ゆかりの独立禅師は「篆刻家」だった‼?‼
明代の篆刻
岩国にある錦帯橋が五連のアーチ橋になったことに関係する独立性易禅師が、明末期に長崎に渡来したのは1653年(江戸初期)、今から367年前のことです。そして9年後、1664年(寛文4年)に岩国の吉川広嘉に医者として招かれ、「西湖遊覧志」という本を見せてくれたことが、錦帯橋創建につながりました。江戸は4代将軍・徳川家綱、岩国は岩国領主3代吉川広嘉の時代のことでした。
錦帯橋
岩国は錦川を挟む城下町を築いていましたので、両岸をつなぐ渡し舟の往来だけでなく、橋の建設を必要としていました。雨で増水した錦川は勢いのある川に変貌するため、どうしても流れない橋を架けたいと思っていた広嘉は、独立禅師が持っていた「西湖遊覧志」の西湖の絵を見たことで大きなヒントを得たのです。有能な家臣たちとともに架橋に取り組み、流れない橋・錦帯はが1673年(延宝元年)に完成しました。
独立禅師の本
この錦帯橋ゆかりの独立禅師は、「日本篆刻の祖」と言われ、高玄岱をはじめ弟子を残しています。しかし、日本では実際に独立禅師が印を彫った記録が残っていません。その為どれくらいの技術を持っていた人かが分からなかったのです。一昨年、東京国立博物館に「独立禅師自用印」の本があることを知り、特別閲覧の機会を頂きました。その際、思いがけないことでしたが、本と一緒に2顆の印も観せていただきました。その2顆の印は2.5㎝角の小さな石印で、それぞれ5面に詩の一節などが彫られていました。その印面の彫り跡に独立禅師の技術の高さを観て、とても感動しました。印を手に取りその彫り跡を観ながら、ひとり興奮した事を今も鮮明に思い出します。
五橋文庫では、ただいま東京国立博物館所蔵の独立性易禅師の印に関する展示をしています。明代の篆刻の祖・文三橋に学んだ独立禅師は、篆刻家を目指した人ではなかったのでその肩書を持ちませんが、2顆の印を観る限り明代の篆刻家に名を連ねても良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
「天外一閒人」摹刻印
日本には早くに印の文化が伝わり、大和古印が残っています。江戸時代に編集された「集古十種の印章」には飛鳥時代の天皇御璽の印影もあります。その後も寺院や絵師らの印も作られ、そこには沢山の印影の記録があります。それを見ると中国との交流が密でない時代には文化の伝来も途絶えがちですので、やむを得なかったと思いますが、その書体は次第に日本風になって彫られていることが分かります。
江戸時代初めに独立禅師が渡来して、明代の篆刻の文化を伝えてくれたことは、それまでの日本風の印の世界に「新しい風」を吹き込んむ事となりました。篆書体の文字もはっきりと修正され、印のデザインの仕方、彫り方などに大改革がされたのです。中国では明から清代にかけて、多くの篆刻家が競い合うように生まれました。当然ですが日本でも清代の篆刻を学んだ篆刻家も生まれました。
独立禅師の渡来に始まる明代の篆刻から、清代の篆刻とそれに影響を受けた江戸時代の篆刻を解説する展示をお楽しみください。12月20日までの開館です。(年内は水曜・木曜休館)
呉昌碩の印譜「缶廬印存」
明代の篆刻