五橋草子「 錦帯橋におもう 」

錦帯橋一年を通して錦帯橋を見ていると、この橋の美しさはどこから来ているのだろうかと思うことがあります。

 3代吉川広嘉公が明から渡ってきた独立禅師という医師を、長崎から招聘した折に「西湖遊覧志」という本を見る機会を得たことが、錦帯橋創建のヒントとなったと言われていることにとても興味深いものを感じています。
 そもそも、独立禅師が住んでいた地にある西湖は、12000年くらい前に形成された潟湖と言われ、「秦の始皇帝も銭塘に至り浙江を望む」と史記にもあるという重要な位置にあったようです。この潟湖は漢代に淡水化し、宋代になって一般にも西湖と呼ばれるようになったと言います。杭州という歴史的にも重要な地の中心部に作られた潟湖は氾濫しやすかったので、水利事業をする役人がいました。唐代には白居易(白楽天)が役人として赴任し、白堤という堤を作りました。後の宋代には蘇軾(蘇東坡)が役人となって蘇堤という堤を作りました。堤に一番必要なことは、氾濫に強く丈夫なものであることです。そのことに加えて、この2人に共通する「詩人」であるということは、とても大きな意味を持っていると思います。白堤も蘇堤も西湖に作られた堤です。いくつもの人口の島を作り、それを石の橋でつなぎ、沢山の木を植え、あずま屋などが建てられています。訪れた人々は思い思いに立ち止り、あるいは遠くの山々を観て詩を詠んだり、湖面に咲くハスの花を絵に描いたり、また、あずま屋では琴を奏でて歌を歌ったりしたくなるような憩いの場となっているのです。2人の役人は丈夫な堤を、まるで絵を描くように芸術的な風情のあるものとして残しました。おそらく自分たちが詩を詠むかのようにデザインしたのではないかと思います。その風情のある堤は今も大事に引き継がれ、地元の人たちを楽しませるだけでなく、「世界遺産西湖」となって世界中から多くの観光客を集めています。
 独立性易禅師が見せてくれた「西湖遊覧志」にヒントを得て造られた錦帯橋は、当初流れない橋を造ることが目的でした。横山側と岩国側をつなぐ橋として3代広嘉公と家臣たちが尽力して作られた橋です。穴太衆に石組みを習い石を積み、川底にも石を組んで敷き詰め、動かない橋脚を作りあげました。その石組みの橋脚の上に木組みの橋を乗せ、人が上を歩くことで木組みは締まり、より強固になるというものでした。1673年に架けられた錦帯橋は1950年のキジヤ台風まで流れずに保たれた橋となりました。
そして錦帯橋を見てみると、なんと美しい姿で清らかな錦川に架っていることでしょうか。城山を借景にして川岸に桜並木を作り、ソリとムクリの曲線美は当初から計算されていたのでしょうか。丈夫であることだけを求めたのではなく、作り手には美への感性と思いがあったからこそできた形ではないかと思います。強さの中に美しさが見える四季折々の錦帯橋に、ますます心が引き込まれていくのです。
 

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