独立禅師はなぜ「岩国錦帯橋ゆかり」?
岩国の名勝錦帯橋は、五連のアーチ橋です。その木のアーチを支えるのは石を組み築いた橋脚と、その橋脚を動かないものにしている川底に動かないように敷き詰めた石です。
「西湖遊覧志」という本を見た岩国領主第3代吉川広嘉(きっかわひろよし)は、「ハッ!」と気づき、家臣たちに命じてお城の石組みを穴太衆(あのうしゅう)に習いに行かせ、全国各地の橋を学び「錦帯橋」という橋を架けることができました。
その「西湖遊覧志」を見せてくれたのが、中国明の国から来た独立性易禅師(どくりゅうしょうえきぜんじ)なのです。独立禅師は明国では戴笠(たいりゅう)という名前でしたが、長崎に来て黄檗宗の隠元隆琦禅師(いんげんりゅうきぜんじ)の弟子になったことから、隠元禅師に付けてもらった名前です。独立禅師は西湖の近くに住んでいましたので、この本を持っていたのです。錦川を外堀に考えて城下町を築いてきた吉川のお殿様は、長年橋を架けることを思案していましたので、本当に大きなヒントを得たのです。独立禅師はこのことだけでなく、儒学や書・画・篆刻についても、また占星術にも多くの知識を持っていましたので、2代広正のお墓のことにも多くの知恵を貸してくれています。
独立禅師が「錦帯橋ゆかりの」と言われるのはこのような理由からなのです。横山と岩国の間に大きな錦川があり、その川をたやすく行き来できるようにつなぐ橋は、町づくりには欠かせないことだったのです。
広嘉と家臣たちが知恵を出し合って木組みのアーチ橋を架けました。幅広い川に4つの石組みの動かない橋脚を置き、その上に岩国にある木を組んでいった。そして架かった5連のアーチは、結果として美しい形になっていたのです。
今と違って必要なものを必要なだけ創っていた時代に、理にかなう形で工夫されたものには「美しさ」を伴うものが多くあるように思います。現代では科学的に解明することもできますが、人の五感が十分に使われていたのでしょうか、残されたものには感動を呼ぶものの多いことに驚かされるばかりです。 館長