篆刻体験で知る「錦帯橋と西湖」

岩国と言えば「錦帯橋」。最近ではクイズ番組にも時々登場してきますが、まだまだ知らない方が多いようです。

錦帯橋は、清流錦川に架かる5連のアーチ橋です。実はこの橋から酒井酒造㈱の銘酒「五橋」が生まれ、酒井酒造美術館として五橋文庫と名付けられました。陶磁器・書画・篆刻・文房四宝などの所蔵品に加え、明治4年から酒造をする会社の資料を使いながら酒文化の発信もする美術館です。

桜の錦帯橋

五橋文庫(GOKYOーBUNKO)

五橋文庫では「篆刻体験」をワークショップにしていますが、その理由は、錦帯橋が5連のアーチ橋になるヒントをくれた人が、「日本篆刻の祖」と言われる独立性易禅師(どくりゅうしょうえきぜんじ)であるという歴史が岩国にあるからです。

五橋文庫の篆刻体験

独立禅師は、中国明代末の知識人で、医者でもあります。明が清に変わるころ家族を残し、58歳で単身日本に渡ってきました。当時長崎には明国から渡来する人が多く、長崎奉行のもとには唐通事(とうつうじ)という貿易交渉の通訳をする明人たちがいました。独立禅師は唐通事の助けを得て、日本で暮らし始めたのです。翌年、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧、隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師が30人ほどの弟子たちを伴って長崎に来ました。隠元禅師が崇福寺でした講話を聴いた独立禅師は、ぜひ弟子となりたいと申し出ました。独立禅師の本名は戴笠(たいりゅう)という名でしたが、隠元禅師が付けてくれた独立性易という名前を日本での名前として使いました。

弟子になった独立禅師は、隠元禅師の書記として4代将軍徳川家綱に謁見(えっけん)しに、江戸まで同行したのです。途中、一行は大阪摂津富田(高槻市)の普門寺に3年滞在しました。その時には、狩野探幽らが隠元禅師を訪ねてきたりして、独立禅師も交流を持ちました。探幽の弟・安信の描いた襖絵に独立禅師は賛を書き残しています。明国にいるとき儒学・書画篆刻に堪能で、詩を良く詠む人であったことが、日本での交流を深めたのでしょう。日本人にとっては、当時の中国の文化はお手本にしているものでしたから、日本人にとっては隠元禅師一行との出会いが、その時代の最先端の文化を知る良い機会だったのではないでしょうか。その後、江戸で将軍に謁見し、そこでも独立禅師は川越藩主の老中松平信綱に気に入られ、武蔵野火(新座市)の平林寺に招かれしばらく滞在したのですが、持病があるため長崎に帰りました。そして幻奇山で3年間仏教を学び、書法についての書論について本を書くなどして過ごしました。

その後、医者として活動し始めて、その腕前の良さが評判になりました。その評判が岩国に伝わってきて、3代吉川広嘉(きっかわひろよし)から招かれ、岩国に来ることになったのです。そして、吉川広嘉は独立禅師の郷里、西湖(せいこ)の事が書いてある本「西湖遊覧志」を見せてもらったことで、大きなヒントを得たのです。吉川広嘉は穴太衆に学んだ石組の橋脚を築き、川底にも石を組んで敷き詰め、大水が来ても長されない橋脚をつくったのです。その上に組み木で5連のアーチを描き、念願であった両岸をつなぐ橋を架けたのです。

独立性易禅師

この錦帯橋のアーチがカテナリー曲線を描くもので、あの有名なガウディが設計した「カサ・ミラ」の内部にあるアーチよりもずっと前に造られている事を数学者が書いている記事を、今年6月にこのブログでご紹介しました。そして私自身が改めて、錦帯橋の姿を見なおす時間が増えたのでした。

そして、西湖のように周囲を山々に囲まれた錦帯橋が、山を借景にして美しさを際立たせていることを感じています。1800年代、岩国藩士であった雲谷派の絵師・和田石英が描いた「錦帯橋図」を見ても周囲に山を描き、美しい構図を作っていることが分かります。あるべき所に架橋した広嘉とその家臣たちに、技術だけではできない感性の高さを持っていたと思うのは、ただ私一人ではないと信じています。

今回展示している「錦帯橋図」と独立禅師の書「静」を目の前にして、篆刻体験を楽しんでいただくと、西湖と重なる景色が見えてくるような時が静かに流れていきます。

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