岩国と篆刻

「なぜ五橋文庫で篆刻体験をワークショップとしているの?」とよく聞かれます。

酒井酒造美術館・五橋文庫

「錦帯橋ゆかりの独立性易禅師が、日本篆刻の祖といわれ、岩国には沢山の明の文化を残しているからです」とお答えしています。

独立性易禅師

「岩国と篆刻」について、少しご説明しましょう。

印の歴史は古くメソポタミアのシュメール文化に溯り、その後2500年以上後に中国に伝わったといわれます。古代中国の殷・周の頃より、玉・銅・鉄・金・銀などに、呪術信仰に密着したものや、璽印(じいん・天子の印)として刻されてきました。

金印

紀元前、秦の始皇帝が民族統一を図る際、文字の統一をしてできたのが篆書体という漢字です。それまでは、動物の骨に彫る甲骨文字や、青銅器に彫る金石文字などがあり、中国大陸の多くの民族がそれぞれ独自の文字をもっていました。秦代には筆も使われていたようで、文字の統一から現在の漢字への変遷が始まっています。始皇帝が定めた印は身分を証明するという官印制となり、皇帝印となった篆書体が最も高貴な文字として後の時代にまで使われていくこととなりました。日本の実印も篆書体が基本といわれ、漢字の原点になる不変の文字として大事にされています。

銅印

その後、後漢時代に紙を漉く技術ができ、それまでの木簡・竹簡が終わりとなります。紙を大きく漉くことで、筆を使い大きな文字を書くことが容易になってきました。書の世界の始まりです。王義之や顔真卿などの書家も誕生していきました。

文字は、動物の骨や玉、鋳造物に彫りつける事から紙に書く事へと広がっていったのです。

唐代に芽生えた収蔵印・堂号印等の使用は、宋代の金石学の勃興と結合して文人の刻印趣味に進展し、雅号印・成語印等が作られ、印の用途に新しい一面を開くにいたり、名前を彫るハンコから篆刻という新たな世界が始まっていく時代が来ます。

それは、元末に王冕(おうべん)が彫りやすい石材を、西湖の近くにある青田県で発見したことに始まります。それまでは専門の職人に彫りを依頼していたけれど、彫りやすい石の発見は、誰でもが自由に、自分自身の表現で印を作れる世界を切り開きました。詩書画を楽しむ文人たちの新しい印の世界が一挙に開花し、明代の文彭(ぶんぼう)・何震(かしん)の先覚を輩出し、芸術の一科としての篆刻が樹立されることになったのはごく自然の流れであったかと思われます。

何震印「雪漁詩画」

岩国錦帯橋ゆかりの独立性易(どくりゅうしょうえき)禅師は、この文彭の流れに篆刻を学び、何震やその弟子たちと同じ時代を生きていた人物です。明末に長崎に渡来した独立禅師は、まさに明の最先端の文化として篆刻や書法、儒学などを日本に紹介した人なのです。独立禅師が弟子入りした黄檗宗の隠元隆琦禅師とその弟子たちが書いた黄檗の書は、当時の日本には大きな学びの流れを作りました。書と篆刻、儒学において高玄岱(こうげんたい)という弟子を日本に残したことは、大きな業績であったと思われます。日本篆刻の祖として、独立性易禅師に並び称される東皐心越は、独立性易に遅れ20年余り後に渡来しましたが、引き続き日本の篆刻に大きな影響を与えたのだと思います。

天外一間人摹刻印

明代の文人たちは、姓名・字号はもちろん、自らの心情を表わす漢詩など文学的語彙を篆書に置き換え、印面の中に表現の技巧を駆使して「方寸の世界」を作りました。押印することで、印泥の朱と紙の白が織りなす独特の芸術性を高く育てていきました。

岩国に4回、医者として招かれた独立禅師は、ふるさと杭州の西湖を描いた本、「西湖遊覧志」を三代目吉川広嘉に見せました。その西湖の絵にヒントを読みとった広嘉は、家臣と共に錦川に五連の橋、錦帯橋の架橋に挑み、お城山を借景にした美しい橋を完成させたのです。美しい橋・錦帯橋は江戸時代初め、1673年から昭和25年(1950)まで流れない強い橋となりました。

桜の錦帯橋

当時の日本では西湖の美しさを高く評価しており、縮景園(広島)・小石川後楽園(東京)・旧芝離宮恩賜庭園(東京)・養翠園(和歌山)・偕楽園(水戸)などは西湖に学んだ庭園造りをしていると言われます。もともと潟湖であった西湖は、堤防を築きながら今の姿になっていったと言われ、その堤防工事に関わった人物が唐の白楽天(白居易)であり、宋の蘇軾でした。役人であった2人は詩を詠む文人でもあったからでしょうか、周囲の山々を生かした風光明媚な白堤と蘇堤という堤防を設計していると思います。それ故に西湖は中国の人々に大いに親しまれる場所となり、常日頃から絵を描く人、詩を詠む人、歌を歌う人達の姿を多く見るようです。そして、今や世界中の人が賞賛する場として世界遺産登録がなされ、いつも賑わいを見せている西湖なのです。

わが国では701年大宝令により印制が布告され、隋・唐印の制に倣い奈良平安時代に倭古印(やまとこいん)が生まれました。飛鳥の時代には天皇御璽も作られている事は、「集古十種」の展示でもご紹介いたしました。現在の天皇御璽は篆刻家・安部井櫟堂(あべいれきどう)と鋳金家・秦蔵六(はたぞうろく)によってつくられた金印で、宮内庁にあり天皇陛下が使われておられるようです。

ハンコの文化から派生し、明代に興った篆刻の文化は、17世紀に独立性易禅師によって日本に伝えられ、明治以降中国古印清朝名家と直結した新風が起こり、中村蘭台・河井荃廬等の篆刻家が続出し、わが国の印壇を多彩に彩り現代にいたるのだと思います。

今、岩国市では錦帯橋ゆかりの独立性易禅師にちなんだ文化として篆刻をとらえ、岩国のワークショップとして「五橋文庫の篆刻体験」を拠点に、誰でもが篆刻に親しめる文化活動を行っているのです。

篆刻体験

酒井酒造美術館・五橋文庫

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