「ニッキン」に「錦帯橋と五橋文庫」の記事

「ニッキン」???初めて聞く言葉です。朝いちばん、理事長から渡された新聞記事には、「錦帯橋と五橋文庫」のタイトルの活字が大きく出ていました。

「ニッキン」は1955年創刊の「日本金融通信社」という会社が作る、金融界の週刊新聞の事でした。小さな財布の中身をやりくりする事しか知らない者には、まったくご縁のない世界の新聞です。

筆者は山口銀行常務執行役員東京支店長の原元典夫氏です。文面には、錦帯橋ゆかりの独立禅師が日本篆刻の祖であること、3代吉川広嘉公が西湖遊覧志をみて錦帯橋を創建したこと、そして錦帯橋近くに建てられた五橋文庫がその歴史を、西湖の白堤や蘇堤にヒントがあることを紐解き始めていることが書かれています。広嘉公は流れない橋を造るにも、家臣たちと一緒に美しさをも持たせた橋を造りました。後に錦帯橋となって岩国の名勝となり、多くの人に感動を与えているのです。その橋には独立禅師との出会いがあったこと、伝えられた篆刻の文化の紹介も錦帯橋につながる話としてご紹介いただいていました。

明治から昭和にかけて、日本の経済界に活躍した実業家・渋沢栄一氏が、新一万円札の顔になるというニュースに、「あさが来た」のドラマが面白かったことを思い出し、あの人気俳優に渋沢栄一を重ねたのでした。世界に肩を並べるために日本を引っ張ってきた偉人たちは、経済はもちろんですが、日本の歴史と文化をとても大事に守り、のちに伝えることもしていたのです。事業を成功に導き、世の中の経済を発展させて、そして世の中に平和な暮らしを作ることは、人々に心の余裕をもたらします。安定すると文化が生まれ育つ、戦国の世から太平の世になった江戸の暮らしには沢山の文化や芸術が育ちました。そして、明治を迎えたのです。

無縁であった金融界の新聞に、錦帯橋、独立禅師、篆刻、そして五橋文庫の話が語られることに、美術館運営も捨てたものではないか、と希望が湧いてきました。京都に別荘群を造り、ゆかりの地に美術館を造って残していった多くの政治界や経済界の偉人達は、本当の意味での指導者の姿だとあこがれの念を持って敬愛していますが、山口県を代表する銀行・山口銀行にこのような方がおられることに、僭越ながら心から敬意を表したく思いました。

「ニッキン」、今日はこの名前に出会ったこと、良い一日の始まりです。

錦帯橋

五橋文庫

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