番頭さんに聞きました! ⑨「五橋と錦帯橋、そして・・」

今日は、「五橋」という名前について番頭さんにお聞きしましょう。

錦帯橋

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日本には三奇橋と呼ばれる橋があります。猿橋(さるはし)、神橋(しんきょう)、そして岩国が誇る錦帯橋(きんたいきょう)です。

世界にも例をみないほど優美な木造橋、錦帯橋についてご紹介いたしましょう。

山口県下最大の清流錦川(にしきがわ)。岩国の城下町を二分するこの川はたびたび氾濫を起こし、幾度となく橋を流失させたそうです。住民にとって流れない橋つくりは悲願だったといえるでしょう。その彼岸が成就するのは江戸前期、岩国藩三代目藩主、吉川広嘉(きっかわひろよし)公の時です。

橋は全長約200メートル、幅5メートル、高さ最大で10メートル。創建当時はおそらく世界最大のスパン(約35メートル)を持っていたと推測されています。巻金とかすがいの使用を中心とした「組木」の技を最大限に活用し、洪水に耐えうる強固な石造りの橋脚には穴太衆(安濃州)石垣の技術が取り入れられました。まさに技術の粋を尽くした橋だといえます。完成後は「五龍橋」、「城門橋」などと呼ばれ、「錦帯橋」の呼び名が定着したのは宝永年間(1704~)以後だとされています。西湖にも「錦帯橋」の文字が刻まれた橋がありますが、この橋の名前との関連についてはまだ明確ではありませんが、とても気になります。

五連の反り橋のヒントになったのは、橋脚を持たない甲斐の猿橋、そして中国明から渡来した独立禅師(どくりゅうぜんじ)が持参した「西湖遊覧誌」、その中にある杭州の西湖に点在する人口島に架かる反り橋だといわれています。

西湖遊覧志写し本

研究を重ね試行錯誤を繰り返し、錦帯橋(初代)が架けられたのは1673年(延宝元年)9月30日。起工したのが同年6月28日だということですから、完成までわずか3ヶ月。その早さには驚かされます。

和田石英「錦帯橋図」

しかし、翌年5月28日洪水のため流失。わずか8ヶ月の夢でした。が、広嘉公はこれに屈せず流失の原因を究明し、同年10月に再建(二代目)します。以後、1950年(昭和25年)9月14日のキジア台風で流失するまでの276年間不落(定期的、部分的な架け替えは行っています)を誇りました。すぐに架け替え工事に入り、1953年(昭和28年)に再建された三代目も50年以上の月日がたちますと、風にさらされて痛みが目立つようになりました。

そこで、2001年平成13年から3年間の架け替え工事、平成の掛け替えで、現在もその美しさは広嘉公が創建したときと変わらずに私たちを楽しませてくれています。再建時の工法も昔と同じ様に行い、今も錦帯橋は三奇橋の一つに数えられ、名橋と呼ぶにふさわしい芸術的建造物なのです。

<<<参考 日本三奇橋>>>

  • 錦帯橋(きんたいきょう)山口県岩国市 錦川にかかる世界でも珍しい木造式アーチ橋。巻金とかすがいの使用を中心とした「組木」の技術が妙。
  • 猿橋(さるばし)山梨県大月市 相模川の支流、桂川に架かる。橋脚を使わずに桔木(はねぎ)を重ねた珍しい構造が特徴。
  • 神橋(しんきょう)栃木県日光市 日光の大谷川(だいやがわ)の架かるアーチ橋。欄干の朱と橋桁の黒のコントラストが美しい。

「五橋」の酒名は錦帯橋から

いまさら言うまでもないことですが「五橋」の酒名は、錦帯橋が五連のアーチ橋であることに由来しています。

錦帯橋の四季折々の華麗な姿は岩国の誇りです。清酒「五橋」はこの優美さに名を求め、「心と心の架け橋に」との思いを込めて命名されました。

「五橋」のキャッチフレーズは「心から心へ橋わたし」皆様の心に五橋の想いは届きますか?

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番頭さんの「錦帯橋と五橋」のお話でした。

錦帯橋と城山

そして、この清酒「五橋」を造る酒井酒造㈱の5代目当主が創った美術館が「五橋文庫」です。

五橋文庫

5代目は長年、錦帯橋と錦川の恵みに感謝しながら酒造りに励みました。

6代目にバトンを渡した今、錦帯橋の近くで岩国市の歴史と文化に少しでもお役に立てたらと、文化活動を始めています。美術品の展示とともに、錦帯橋ゆかりの独立禅師が残した歴史と書画、篆刻について力を入れて居ります。

9月からの企画は、独立禅師が「日本篆刻の祖」と言われていますので、明末から清代にかけての篆刻に注目しての展示です。

岩国に残る歴史と文化に触れる内容にと思って準備をしていますので、ご期待ください

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